「牧神の午後」
   AUTHOR ももさん



夏の暑い日。

エドが、アルの太陽光で熱くなった鎧の身体がツライだろうと直射日光を避けて駆け
込む先はいつも図書館だった。街から街へと賢者の石を求めて流れていくのだが、ど
の街にも必ず図書館あるものだ。アメストリスには字が読めない人も大勢居たし学校
に通っていない子供達もいたけれどその気になったら自分でいくらでも体系だった知
識を学ぶ環境はあるのだった。時にはお腹が空くまで雨宿りをした。遠くで響く子供
達の嬌声を聞きながら学校に通うでもないふたりの兄弟には、時間だけは、たっぷり
あった…。

…コツコツと書架の間をこちらに歩いてくる足音がする。
本に集中していても、その足音だけはエドの耳にすっと入ってきてまるでリズムを
持ったメロディーのように文字をたどるのを止めさせてしまう。
ここ、どこだっけ?
深く書物に入り込んだ時の軽い浮遊感から一瞬エドは自分がどこにいるのか、今は何
時なのか、思い出せないでいた。けれど、足音の主だけはハッキリと認識できる。
アイツだ…。

「またキメラの本か。自虐的だな、君は」
「頭で理解しないと前に進めないだけだ」
「錬成式をぶつぶつと構築していたろう?空気の揺れで君のいる場所が分かる。あの
事件の動機はただの人間の欲望で、高尚な学問とは違うぞ」
「…高尚?」
なんとなく唇がきゅっと左に上がるのをエドは感じていた。
そういうエドの表情の変化を知って知らずか、ロイはつつ…と書架を右から左へ一瞥
するとさっと手を伸ばして一冊の薄い本を取り出した。

「そんなものより、これを読むといい」

何の躊躇もせずにロイが取りだしたのはマラルメの詩篇集だった。
取り上げたキメラの歴史本をロイは黙って書架に戻し、それをエドの手に握らせる。

エドは少々強引なロイに面食らいながらも嫌な気持ちはしなかった。いつだって読む
本を決めるのは自分だけだったし、誰かに知識を導かれる愉しみを味わったことは無
かったから。空気が震えて、俺がここに居ることを分かったって言ったよな…。
その場で本を開く。

海の風  〜ステファン・マラルメ〜

肉体は悲しい、ああ! そして、私はすべての本を読み終えた。
逃げよう! 彼方へ! 鳥たちが未知の海と空の間にあって
酔っているのを感じる!
何物も、目に映る古い庭も
海に浸ったこの心を引き止めはしない
おお、夜よ! 白く守られた空しい紙の上の
私のランプの寂しい光も
子供に乳を飲ませている若い妻も。
船出しよう! マストを揺らす気船よ、
錨を上げよ、異国の自然に向けて!

残酷な希望にかき乱された「倦怠」は、
未だにハンカチーフの最後の別れを信じている!
そして、おそらく、マストは、嵐を招こう、
マストも無い、豊かな島も無い、行方も知れぬ、
難破船に吹き降ろすだろうあの風を…
だが、おお、我が心よ、船乗りたちの歌を聞け!

…「これには神話に登場する半人半獣の牧神と人魚たちがきらめく波間に戯れる描写
が出てくる。彼女も母親と一緒にもう一つの世界で暮らしているかもしれないと、君
は考えたりしないのか」
「あんたがこういうものを読むなんて…」
「可笑しいか?」
微かにロイは笑う。
「士官学校に居た頃、ヒューズが勉強の本より詩でも読め、机に向かうより街へ出ろ
とね。女の子の間をデートだ映画だ食事だと引っ張り回された」
「この人はキメラを見たのか?」
「違う、想像上の生き物のことだよ。愛を囁く時にこういうものを引用するんだ」
何が言いたいんだろう…こいつは?慰めか自慢なのか、どっちだ?
エドは密かな胸の痛みを感じながらぱたんと本を閉じてロイに突き返す。
「…俺には必要ない」
ロイは黙って受け取った。

立ち去らないのか?拒絶したのに。場が持たないのでエドは続けて口を開く。
「ふたりの人間からひとつの人間しか作り出せないんじゃないかってこと。どう思
う?」
「それが君が行き着いた結論か? 等価交換の原則はどうした?」
ロイはきちんと議論には答えてくれる。こういう話が出来るのはロイだけだった。
「鎧から魂が消えないうちに俺の身体に、アルの魂を入れればいいんだ。たぶん」
「そうしたらお前の魂はどこへ行くんだ?」
「…消えるかな?同居は無理か、やっぱり」
「ひとつの身体に、ふたつの魂は無理だろう」
「じゃあ、俺が出て行けばいい」
「生きている肉体から魂だけを抜き出す方法というのが果たして、あるのかどうか」

「だから、探してる」
ロイは詩集を棚に収めた。

「…もう、決めたのか?」
「なんで?…だから、ただの錬成理論の相談だって。出来るはずもないし」
「人が誰かに何かを相談する時っていうのは、もう自分の中で答えが出ていて、それ
を実行するための理由を探しているだけだからさ」
「見透かしたように言うんだね」
「ほら、当たった」
「だから違うって」…

…新しい街。
アルとふたりで雨を避けて駆け込んだ図書館で俺はひとり書架の前に立つ。
あれから無意識に近づいてくる足音を探すようになっていた。コツコツコツコツ…
ふいに俺の心配をしているロイの魂をふわりと背中に感じた。
誰かが俺を想っている。消えてしまわないで欲しいと繋ぎ止めてくれる唯一の線に。

すがりつきたいような衝動に駆られてしまう。
牧神とは言い難いが半人半獣なのは俺たちだ。
肉体から魂だけを取り出す方法ならあるだろう?大佐…。

エドは硬く目を閉じたまま立ちつくす。

…こうして心が虚ろになって姿を探しているのが、もう、既にそうなのだから。

ende